普通日記

働くトリネガ、絵描き修行中につき

2度目の脱毛に脱力

私も女なので髪が抜けるのはションボリだ。放射線の全脳照射の副作用で脱毛した。昨年5月の抗がん剤以来2度目になる。なぜか前髪がチョロっと残っている。大五郎?気分はマジでしとしとぴっちゃん。
鹿児島での治療も終盤の頃、海老蔵になったとザラザラの手触りを楽しみ、年明けにはとーちゃんそっくりだと苦笑いしていた。
2月早々、馴染みの美容院に張り切って出かけてカラーリングをお願いした。ご夫婦と娘さんの3人は、元気にやって来た私を見て本当に喜んでくれた。せっかくベリーショートなんだから明るいカラーにしてみようと話がまとまる。お姉さん娘ちゃん私でカラー見本を見ながら、ピンクは?渋め赤にアクセントでピンク良くない?やーん、いいかも、オシャレかもぉ~、と大いに盛り上がる女子3人。傍の方から、いやアッシュ系の方が…、まずはイエロー系で…、結局オレの話は誰も聞かないんだな…とつぶやくお兄さん。
抗がん剤の影響で髪にウネウネとクセが出ていたが、それが逆にうまくまとまってオシャレショートに仕上がった。仕上げてくれたのはお兄さん;^_^Aとても気に入っていた。
なのにねぇ、まさか1ヶ月後に脱毛とはひどいじゃないかよぅ。

抗がん剤は通院だったので、抜け始めた時は新聞紙を広げて地肌をバサバサ軽くさすって抜けた毛を片付けていた。そうでもしないと散らばるしチクチクと痒いのだ。
ところが今回は寝たきり入院中。タオル帽子の中は抜け毛でいっぱいになり痒みもハンパない。痒くて眠れない。母に、触って抜ける分だけは抜いてくれないかと頼む。あっさり断られる。だって怖くてできないもーん、やだよぅ。…さすがだ、母。やっぱり最強だ。
その夜に顔を出してくれたぽんちゃんが、タオル帽子から抜け毛がはみ出している様子を見て、こりゃ痒いだろうとレジ袋を切り広げて頭の下に敷き、バサバサと地肌マッサージをしてくれた。助かった。3日くらいでほぼ抜けてしまった。

自分がどんな髪型をしていたのか思い出してみた。髪は細いが量は多いので静電気に弱かった。色素が薄くて天然茶髪だったが40過ぎたら白髪バリバリ。カラーとパーマ両方はダメージが大きいのでストレートのままボブにしていた。年くってからストレートを維持するの、結構大変なんだよね。お手入れ怠るとツヤなくなってうねるし。
でもまぁね、前回の脱毛で意外とショートがイケるってわかったので、また伸びてきたら、いつもの美容院でかっこよくしてもらうのだ。

怒涛の連続更新なのだ

入院エピソードはあるが、テキスト化する気力がなかった。元気になったってことだ。おバカになっちゃうかも、という薄い危機感もあるっちゃあるし。脳みそのリハビリ。下書きフォルダに溜めておいたネタを放出しているよ。

意識不明3回(内1回はバチモン)があったので、心電図モニターにつながれ、常に点滴していた。前にも書いたが、私の血管は細くて埋れている。激やせしたが埋れている。なのでルート確保は大変なのだ。毎回1発では決まらない。大概は一人当たり3回ほど刺される。その日の担当さんがチャレンジして、そこでだめなら血管達人のM看護師が呼ばれる。ファニーボイスの若くて可愛らしい看護師さんが針持ってやって来る。真打登場。時間をかけてやっと見つけた血管も細くて空振りなんてのは当たり前。せっかく確保したルートも1日でダメになる。もうね、ファニーボイスの看護師さんが来ると、お手数かけますが今日もヨロシク、いえいえ、こちらこそ、なんて感じで、もはや2人の共同作業な雰囲気だ。
意識不明事件以降、アレビアチンというけいれんを止める点滴が増えた。主にてんかんの発作に使われる薬だ。これが血管痛をおこす。細い血管に流し込むのでとにかく痛い。初めはゆっくり落としてもらい30分ほど本気で我慢。速度を通常に戻してまたまた我慢。なにしろ時間をかけて確保したルートなので、少しくらい痛くても問題なければ続行なのだ。手の甲なんか穴だらけ。むくんだ腕や指先で箸を持つのも一苦労。食事や水分を自力で取れるようになり、点滴から内服になりますよと言われた日は、これで日々の試練から解放されるぅぅぅと言って笑われた。
内服とはいえアレビアチンのせいで肝機能の数値が落ちているそうだ。肝斑がずいぶん目立つのはこれが原因?頬の上に出現した魔の三角地帯。妙齢女子の敵はこんなところにも潜んでいた。エステに行きたいよ~。

まさかの終末医療?

4月の2週目を目安に退院という話になった。それに伴い介護認定を申請するとのこと。必要な物や受けたいサービスなど尋ねられるが、あまりピンとこない。うっそーん、だって日々回復してるし元気だし、このまま普通に生活できそうじゃんって思ってるし。


確か去年の4月6日にがん告知だった。その時に、進行がんでも何年も生きる人もいれば、初期でも1年で亡くなる人もいる、という話を聞いた。どこかで覚悟はしていたが、1年以内に脳転移とはねぇ。

告知から今まで1度も泣いていない。さすがに告知直後は1ヶ月ほどたっぷり落ち込んだが、それからは泣くヒマもなかった。調べたり考えたり決断したり耐えたり逃げたり鹿児島で食い倒れたり。自分の事をメインに考えられる独身で良かったかもしれないと思ったり。がん患者は忙しい。

終末期に向けての話を看護師さんとする時に、自分じゃ何も分からないし予想も出来ないので、どうしても具体的な話になる。介護認定も私の場合は低いだろうと心配されたが、こっちは腹くくって独身やってるのだ。もはや老後の不安がなくなったのだから資金繰りを練り直す必要がある。予想外に長生きするかもしれないのでボチボチな。ここ小心者な。

てな感じで踏み込んだ話をグイグイする私に、ふと看護師さんが黙りこんだ。あまり無理して明るくしなくてもいいですよ。つらい感情を吐き出すのは恥ずかしい事じゃないんですから。と言われた。そうか、ここは泣くところだったか。

わーっと泣いて気持ちが切り替えられるなら存分に泣いたらいい。実際に泣くことでストレス発散の効果があるのは周知の事。がんになったのは間違いなく悲劇だから、悲劇のヒロイン気分に浸っても誰も文句は言わない。

でも、いつまでもどっぷりヒロイン気分を満喫してると、その間の思考ってどんどんと悪い方に向かっちゃうよ。免疫力ダダ下がり。ヤベーよ、ヤベーよ。

主治医も看護師も、多くの末期がん患者を見て来た経験を踏まえての提案なのだろう。私にとっては悲劇の提案だが、客観的な情報であることには間違いない。今後の準備には多いに役立てたい。

データごときに一喜一憂しても何も変わらないのだから、利用するだけして不要になったら捨てちまえ!悲劇のダークサイドに落ちても自らのフォースの力で脱出しないとね。っていうか、私はそんなに末期なのけ?何度も言うが日々元気になってるんだけど。

初体験する:The.意識不明!

意識不明といってもね、本人はまったく分からないんだけどね。なんつっても意識飛んでるから。

放射線照射の後に激しい頭痛の波がグイグイ押し寄せるので、痛み止めの点滴をしてもらっていた。これがまた良く効いて数分で楽になった。母と妹が主治医に説明を受けている間、ぽんちゃんと「こりゃーいいぞ、効くねぇ」とゲラゲラ笑いながら話をしていたはず。はずなのだが、気がつけば大声で呼ばれてるし、人に囲まれてるし、なんかCTだかMRIだか撮ってるし、主治医自ら針刺してるしー。

看護師が気づいて、説明を終えて戻る主治医を追いかけて処置してもらったらしい。そういえば、ここはどこだと思ったら個室だった。広いけどショボい。

まつ毛が濃くて黒目が大きいので、痩せた顔でカーっと目を見開いたまま動かなくなった私はちょいとホラーな感じだったようだ。

この時に、母はウェーンと泣いて妹に速攻で泣くなッ!と一喝されたが、だって悲しいんだも~んウェーン、だったらしい。うん、目に浮かぶよ。ある意味、母は強いのだ。

2度目はエセ意識不明。気を失いたいくらいの頭痛に耐えている時に、家のテレビが壊れてどうしよう、親戚にどこまで言ったらいい?公民館の配り物が…美術会からハガキが来てて…云々。知るかボケー、せめて質問は1個ずつしろー、と叫びたかったが何せ気絶希望レベルの頭痛。面倒くさいから黙りこんでみた。返事しない私にビビった母はナースコール押して、意識不明です、すぐに来てーと叫んだ。

イヤイヤイヤイヤイヤイヤ、違うから、意識あるから;^_^A

ある意味、母は最強なのだ。

3回目はトイレ。病室で介助してもらいながらポータブル使用中に。便秘だったんだよね。自分なりに頑張ったんだよね。あぁ、乙女の恥じらいもぶっ飛んだ。


残念ながら、幽体離脱とか三途の河とかご先祖様とか、そっち系の初体験はまったくなかった。意外とそんなアンビリバボーなのってないと思うんだよね。手相やら占いやらで霊感あるタイプだって必ず言われるけどさ、寿命が来たら無でしょ。無だと思うわー。とか言ってるから転生しないって言われんのかな。

人の縁に感謝する。

人に恵まれている。
これは不幸にならない大きな要素だ。散々イジメだパワハラだと書き散らした後にどうかと思うが、悩み多き20代あってこその今なんだから結果オーライだ。

何かトラブルがあっても自分がブレなければ関係は切れない。そこで離れていく人は自分にとっても相手にとっても潮時だったのだから、それも有りだ。
しかし乳がんになって、さすがに揺れた。揺れたが支えてくれる手があった。さりげなく、力強く、優しく、心の深いところにグッとくるような支えだ。もし自分が逆の立場だったら、こんなにも親身になれただろうか。もう感謝しかない。毎日だれかにありがとうと言っている。これはすごく幸せな事だ。友達、少ないけどf^_^;
しかも少ない上に、もれなくみんな少し変わり者だ。少しじゃなくガッツリ変わり者かも。愉快で仕方ないのだが、厚意や思いやり、親切や優しさがさりげなくて後になって気がつく事も多い。ちゃんと受け止めたい。

FECでヘロヘロの時に、妹から遠隔でリコネクティブヒーリングを贈ってもらった。基本的に癒しだのヒーリングは好きになれないのだが、リコネクティブはちょいとノリが違っていた。迷った時に自分で選択できる。選択した事に自信が持てる。結果に対してムダに後悔せずに前に進める、等々。心がけ次第では?とも思わない訳じゃないが、ここはひとつ感度を上げる為に頼ってみることにした。
寿命の期限が予定より早くなったのだから、とにかく“ありがとう”を逃したくない。これからの出会いも逃したくない。自分を不幸にしない為にリコネクションを受けた。

鹿児島行きを後押ししてもらった。無事に治療を終えたことを一緒に喜んでくれた。たくさん応援してもらっている。新しい出会いもあった。運はイマイチかもしれないが縁には恵まれている。ありがとうを取りこぼしていないだろうか。上手にありがとうと伝えられているだろうか。

20代前半は試練であった

排尿の為の管のおかげでずいぶん楽ちんだったが、感染症の疑いで外すことになった。39度の高熱が続いてしまったせいだ。膀胱炎か尿道炎かと微妙な診断で、微熱は今でも出っ放しだから原因がはっきりしない。
膀胱炎は子供の頃から割とクセがあるので経験済みだ。あの何とも説明しがたい辛さはなかったので、大した事はないのだろう。

膀胱炎にまつわる悲惨な記憶がある。入社した時の上司が、今なら訴えられるくらいのトンデモ上司だった。そんなゴミみたいな仕事すら出来ないお前はバカだ、なんて暴言は当たり前。お茶当番で数分席を外せば、やる気のないヤツは辞めろ、帰れ!と言われる。1つ上の先輩は本当に帰って2度と来なかった。トイレに行っても機嫌次第でサボっていると怒られたので、どうしても我慢する事が多くなる。ある日、ヤバイなと思ったら血尿が出た。早退させて欲しいと言ったら、社会人になった責任感はないのか、仕事を何だと思ってるんだ、終業まで我慢できないのか、と予想どおりの返答。しかし膀胱炎にそんな余裕はない。フロア中聞こえるような大声で「血のオシッコ出ました。ガマンできません」と宣言して病院に直行した。まだ21か2くらいの若かりし頃の話。
当時、会社を辞められない、というよりも収入が絶たれる訳にはいかなかった。自営業の父親が入退院を繰り返すのっぴきならない状況だったし、世間知らずな私はサラリーマンとはこういうものだと思っていた。人間関係も不器用で、女同士の派閥抗争に巻き込まれてドラマのようなイジメにも合った。
もともと理不尽な事に対して黙って堪えるタイプではない。まわりの様子に合わせて媚びるのはもうたくさんだ。そろそろ限界だと思っていた頃、これまたGOODなタイミングで先輩女子3人に更衣室に呼び出された。喧嘩上等‼‼
泣いて喚いてひどいわ〜ってのは何か違う。小娘ひとり吊るし上げてなにがしたいのかと問い詰めた。ただの憂さ晴らしならくだらな過ぎやしないかと。
翌日から表だったイジメはなくなった。キレついでに横暴な上司にも見切りをつけて退職の希望を申請した。
捨てる神あれば拾う神あり。退職届けを受け取った当時の本部長が異動する気はないかと言う。こっちにしてみれば渡りに舟だ。その場で異動すると答えた。退職届けはそのまま返された。それ以降、私は製造部門の事務員だ。おなじ本部だのとこだわらなければ、群れを成さない女子もいる。派閥抗争からスッパリ切れた(切られた⁉)おかげで人間関係もサッパリした。
所詮、私は上手く流れに乗るとか、誰かの影になって無難にやり過ごす事なんか出来ないのだ。自分で動かないと何も変わらないよって知る事ができて良かった。大変だったが良い試練だったのかもね。
っていうか、そこまで痛い目に会わないと気がつかんのか、自分。損な性分だな、まったく。

先が見えない不安

放射線の全脳照射と決まり、副作用に関する説明を受けた。この時はまだ危機感も薄く、鹿児島での愉快な治療期間のイメージが残っていたので外泊もするつもりでいた。治療後におバカさんになるかもしれない怖さはあったが、仕事に復帰すれば何とかなるとも思っていた。
しかし治療が始まってみれば、転移のせいか副作用か、激しい頭痛でトイレも自分で行かれず、点滴とモニターに繋がれて生きていた。
3月も20日を過ぎた頃には少しずつ体調も良くなり、毎日の微熱に悩まされつつもリハビリするようになった。結構イイ感じでイケるんじゃないかと思っていたが、どうも看護師さん達の話が在宅介護とか訪問とかデイサービス寄りなのだ。

聞いてみた。
脳転移後に職場復帰する人はほとんどいないらしい。それどころか、現実的に普段どおりの生活に戻るのは厳しいかもしれない。
さすがにビビってiPhone駆使して調べたら、んまー、もう出るわ出るわ、余命は年単位ではなく月単位とか。うんざりして調べるのやめた。
もし来年の桜は見られないかもね、というのならサッサと退職金もらって余裕で暮らしたい。それなりに身の回りを整理しておきたい。証拠隠滅したい物もない訳じゃない。

グダグダ考えてもラチがあかないので、主治医に聞いてみた。
今回の放射線治療は、やはり症状を抑える為の処置という意味が大きいそうだ。腫瘍が消えるわけじゃないので、今後どう変化するかは不明で、数ヶ月後に何らかの症状が出る事が多いらしい。長期と短期の目標があるとして、今は短期で考えましょう、と。まずはトイレとか風呂とか自宅で困らない程度の生活レベル。

これ、平たく言ったら、どっちにしろ先のこたぁ先になってみなくちゃ分かんないんだよねって事だよな。それなら、やらなきゃいけない事とか出来る事とか四の五のカッコつけてる場合じゃない。今やりたい事に絞り込んだほうが良さそうだ。手や視力に影響がないうちに自画像を描けないだろうか。最後の作品にするつもりはさらさらないが遺影には使える。

妖怪日和

自力で鹿児島に行かれない。とにかく悔しいのはこれだ。どうしても、転移が骨や他臓器だったら行けたのでは…と考えてしまう。そしてすぐに打ち消す。転移後、たくさんの想いや辛さを抱えながら治療している人たちを私は知っているのだ。
脳の転移はたぶん早い時期に根付いていたのだろう。不調の信号を私が見逃した。2月の検査で頭痛やめまいを訴えていたら…これもすぐに打ち消す。今さら考えて後悔しても現状は変わらない。だったら考えない。
オンコロジーではPETで全身の状態を見る。そこで再発転移なしの結果で意気揚々と帰ってきたのだが、PETには落し穴がある。もともと生理的集積がある脳や膀胱はわからないのだ。オンコロ真っ最中のお嬢さん方、自分観察を怠らないようにご用心ですわよ!

さて、話は変わるが、1ヶ月以上の長期入院は初めての体験である。まぁ、ほとんど頭痛と吐き気でのたうちまわっていた記憶しかないが、調子の良い日もたまにはある。ある日、よせばいいのに鏡で顔を見た。よっ、ご無沙汰だねぇ、自分。なんつってノンキにのぞき込んだら、そこには衝撃的なものがーッ! ボーボーだし、ヒゲボーボーだし。痩せこけたおっさんだし。
食欲のない私の昼ごはんを食べていた母に、いますぐ顔剃りさせろーと大騒ぎするが、はいよー、明日買ってくるねー、と、これまたノンキ。頼むから今すぐと騒ぎまくっていたら、たまたま来てくれた友人Kちゃんが売店まで走ってくれた。すまん。
スッキリしたところで改めて鏡を見る。痩せて目ばかりになっていた。もしタレ目だったらアンハサウェイじゃん。レ•ミゼラブルでコゼットを想いながら夢やぶれて熱唱する感動的なシーンを思い浮かべつつ、タレ目にしてみた。
こなきじじい…。
すっかり脱毛してるし…。
ゲゲゲ。

脳転移しました

入院中なので、iPhoneから更新してみるよ。

2月17日の夜、頭痛、めまい、吐き気がひどく、これは更年期がどーのこーのってレベルじゃないぞと、かつての総合病院の緊急外来に飛び込んだ。折しも大雪の後でタクシーが捕まらず、友人ポンちゃんに連れて行ってもらう。CTには小脳に何か写ってるから、このまま入院か翌朝から脳神経外科で診察と言われた。

MRIの結果はやはり脳転移で、乳腺外科で診察。その場で放射線での全脳照射と決まり、放射線科で診察、マスクを作られる。

放射線治療なら鹿児島に行きたい。だが、飛行機どころか電車にすら乗れない。辿りつけない。なんてこった。

転移によるものか、治療の副作用か、激しい頭痛と吐き気で寝たきり1ヶ月。やっと症状が落ち着いてきたのでリハビリしつつ入院生活続行中。

全消しで小躍りしてた2月初旬から急転直下な展開。いつの間にかオリンピック終わってるし…。


いつものように日記ネタを練って熟成する余裕がないので、不本意ながら報告だけの更新です。

鹿児島に行きたかったよぅ。

不定愁訴のオンパレード

FECの辛さに比べたら平気だよー、と言いたいところだが、人間、のど元過ぎればなんとやら・・・と言うように、調子の悪い状態が続くのは嫌なものだ。

素人判断ではあるが、どうやら更年期障害スペシャルバージョンではないかと思われる。そろそろお年頃ではあったが、5月に化学療法を開始し7月までに4回をこなした。その間に徐々にあがっちゃう兆しがあり、たぶん生理の完全停止は7月下旬あたりだろう。おかげで8月からは毎日心置きなく温泉に入れちゃったよラッキー!ではなく、自然の流れを薬で急に止めたわけだから、身体がついていけないのは当然だと思う。時々、何の前触れもなく顔が熱くなって汗が出たり、関節がギシギシと痛かったりした。2月の検査で鹿児島から帰ってから、めまい、片頭痛、立ちくらみの超すごいヤツがちょいちょいある。仕事にならん。やる気も失せる。すごく疲れる。

前回の日記で、婦人科かな~と書いたところ、再発や転移のリスクを負っている乳がん患者である限り、健常者と同じ対応では不安ではないか、できればまずは乳腺外科に相談してみたほうがいいのでは、というアドバイスを頂いた。

そっかー、そうだよね、まったくそのとおりだと思う。

耳鼻科でこってり叱られた後なので、医者恐怖症になっていて、当たり前のことを見失っていた。叱られるのは嫌だが、このまま不調なのもいかがなものか。トリネガ乳がんだって元気に過ごしたいんだーって勇気を振り絞ってオンコロジーまで行った根拠があいまいになっちゃうじゃないか。

ということで、ホントに、マジでおろおろしつつ、初診でお世話になった総合病院に電話してみた。ただいま返事待ち中。おろおろ、どきどき、よれよれ。

以前も今も、総合病院の主治医には恨みつらみなど微塵もない。手厳しい事も言われて気まずい状態にはなったが、それは医者がプライドを持って、患者にとって最良の治療をしようと試みていたからだと思っている。まーね、それを私が途中で放り出して逃げた・・・って見られても仕方のない状況だから、文句を言えた筋合いではないんだけどね。わかっちゃいるけどね。でも医者に怒られるのってヘコむんだもの。

この病院で継続して面倒みてくれ~だなんて言えないが、せっかくオンコロジーで全消ししてもらったのだから、今度は自分ががんばらなくちゃね。自己判断でヘタな事をして、リクスを無駄に高めるのは避けたい。

もし、かつての主治医と面談がかなうのであれば、FECの効果があっての今だという、お礼だけはきちんと言おう。言えるかな~、手のひらに書いていこうかな~。がんばれよ、自分。

 

追記:電話した。来週の診察になった。カルテでは治療終了となっているので初診扱いになるが、それでもいいかと確認される。もう終わってる患者なのだな。そりゃ良い印象なわけがないよね。とかナントカ、いろいろ先の事を悩むのはやめておこう。あんまりグダグダ考えてばっかしだとガンになっちゃうもんねー。